Written by 島袋八起 誰でもきっとそうだったと思う。僕もまた、前評判もよく知らずにくちばしPの「私の時間」という歌を聴いたとき、不意打ちのように感動させられた。つまり心が揺り動かされた。「私の時間」という歌はステキだ。だけどそれでも、僕にとってその何が感動的かということについて語るとき、始めの手がかりは断片的だ。——歌いだしの「わたしは」というフレーズでひびく「ワ」の発音が楽しくてかわいい。サビの「さあ れんしゅう れんしゅう ゆーあーまいますたー」と歌っている声がかわいい。「まいますたー」という音のつらなりがかわいい。二番の「メッセでおしゃべりしてる あなたとあのコ」に嫉妬しているところがかわいい。——そんなふうに。これらの断片たちはすべて僕にとって真実であって、私的なものだ。けれどもこの私的な断片についてどう考えるのか、それを僕はことばという公的な表現手段をつかって語らなければならない。そのように僕は感じている。なぜ。他者とわかりあいたいから? この批評は、くちばしP「2007年10月22日 20:12 初音ミクオリジナル「私の時間」」(4分28秒、 http://www.nicovideo.jp/watch/sm1340413)版の「私の時間」にもとづいて書かれている。なお、歌詞は wiki「初音ミクwiki」(http://www5.atwiki.jp/hmiku/pages/135.html)やブログ「ボーカロイドの歌詞置場」(http://010701070107.blog5.fc2.com/blog-entry-20.html)で確認できると思う。 「私の時間」のメロディー構成は、大まかに[Aメロ→Bメロ→サビ→Aメロ→Bメロ→サビ→Cメロ→サビ]となっている。 さて、歌のタイトルはCメロの歌詞中に出てくる次のフレーズから取り出されていると思われる。「時間」ということばはこの場所にしか出てこないからだ。 同じ顔 同じ声 たった一つ違うのは このフレーズは初音ミクが、自分の歌の練習=調教をしてくれている「ますたー」に対して「私は大量生産のボーカロイドなので、どの初音ミクも同じ顔で同じ声を持っているんだけど、ただ他の初音ミクと違うのはあなたと出会ったことだよ。そして、これは他の初音ミクが持たない、私だけが持っている、あなたと過ごす時間なんだよ」という意味で語っている箇所だ。 この意味を通じて、マスターではない私たちも、リスナーとして同じようなメッセージを受け取ることができる。単に「あなた」を「ますたー」に限定せず、初音ミクの歌を聴いている自分をそこに想像的に位置させることでミクと特別な関係を結ぶことができるからだ。ミクが私たちに直接かたりかけているわけではないが、私たちは、想像力を通してたやすくストーリーを自分の体験として感覚する能力を持っているからだ。裏返せば、ミクは「ますたー」に語りかける歌詞を通して私たちに語りかけている。「私の時間」の感動の根底にはまずこのようなストーリー把握がある。 ストーリーを組み上げる細部について少しだけ考えてみよう。具体的には、「私の時間」ということばの意味について考える。右に述べてきた「私の時間」ということばの意味は、歌詞中に出てくる単語の語彙・文法や物語的な論理関係を把握することで考えられている。つまり「私」とは「そこらにいない女の子」で「目指せsuper idol」で「電脳風味な見た目」で「ねぎー」の女の子である。これらはすべて初音ミクの性質を切り取りながら示している。「あなた」とは「ゆーあーまいますたー」で「上手に歌わせて」くれて「メッセでおしゃべりしてる」というボーカロイドのマスターの性質を示している。だがもちろん、歌詞の読み取りとはそれだけの経路だけではないだろう。 Aメロの印象的な「うたうだけなら」というフレーズに注目してみよう。このフレーズが耳をひくとすれば、「うたう」という音のならびが、まるで「た」の音を軸にして鏡面で反転するように線対称のかたちをなしている点にひとつのフックがある。このフレーズに隣接している「わたしは」もまた「わたしゎ」という「た」の音を軸とした線対称にちかいかたちをもっているため、「うたう」と「わたしゎ」はお互いの時間的なちかさと「た」の音の一致および線対称というかたちを通して、音による連想の関係を結びあう。(ちなみに、同じような線対称のかたちはAメロにおいて「だれでもできる」「いない」「ちょうきょう」、Bメロにおいて「でんのうふうみなみため」=「うふう」+「みなみ」や「もしかしたら」「いちい」のように頻繁に出てくる。「た」の音を媒介にしている点で「うたう」と「わたしゎ」の関係は他とに比べて強いということが言えると思う。)だから、私たちが歌を聴くときに、「歌う」「私」という初音ミクの性質が強化されてリズミカルに感覚される可能性はあるだろうと思う。 このような、時間のちかさと音の一致とかたちによる捉え方で、ふたたびCメロの「同じ顔 同じ声」というブロックをみてみると、 おなじかお おなじこえ たったひとつ ちがうのゎ 「おなじかお」から「じか」で始まり「わたしだけのじかん」でやはり「じか」で締めくくられているのがわかる。ここでの音の変化をたどると、まず「おなじかお」の「かお」が子音を軸に母音を変化させて「こえ」へ変形し「おなじこえ」というフレーズが導かれている。この歌詞における音と形式の連想の関係の一端を示していると言えるだろう。つぎに「たったひとつ ちがうのゎ」は「た」「と」「の」の音の一致とかたちの類似を通じて「あなたとの」との音の連想による結びつきを強めている。ここでは「同じ」と「違う」の対比においてとくに「あなたとのであい」に表現的な重みが置かれると考えればよいだろう。 面白いのは「ちがうのゎ」と「あなたとの」の、「わ」につづく「あ」の音がまるで「ちがうのゎーなた」のように連結されて歌われているように聞こえる箇所だ。いつも僕はここで気になって耳をすませて「変だなあ」と笑ってしまうのだが、ここには「わたし」と「あなた」の融合への願いのようなものがあるのかもしれない。実際、音に注目すれば「わたし」と「あなた」は「た」の音によってしかつながれていないが、「あなた」をあえて「わなた」と発音してしまうチートをつかうことで「わ」の音が媒介となり、二者は接近することができる。こういう関係があってこそ、初音ミク楽曲においては「わたし」と「あなた」の間に媒介としてある「た」の音つまり「うたう」ということばが、重要な表現をなすのだろう。 さて、ここまで把握したところであの有名なサビをみてみよう。 さあ れんしゅう れんしゅう ゆーあーまいますたー 重要な「た」の音に注目すると二カ所「ますたー」と「うたわせて」に含まれていることがわかる。ここでも「わたし」と「ますたー」の音の一致の関係は「た」の音によりつくられているが、さらに「ますたー」との関係において「うたわ」されることで「わた」という媒介音をもつことができていることが重要だ。たんに「わたし」が単独で「うたうだけ」(1番Aメロ)であれば、「た」の音でむすばれるにすぎず、事態として音による連想の強さがちがうだろう。 このように整理すると、「私の時間」とは、「あなた」=「ますたー」が「れんしゅう」で「うたわ」せることで「し」や「た」や「わ」の音をとおして「わたし」とつながる時間であり、時にはミクの発音の具合によって「わ」が「あ」と連続してしまうような特別な関係が結ばれる時間でもあると把握することができる。 歌のメロディーにおいて和音や旋律やリズムの細部が、それぞれの形式の内部において相互に関係をなしつつ、歌表現の全体を構成していくように、歌詞においてもまた、歌う人の声や歌詞の韻律や音の配置の細部の関係に、表現の構成の一端をもとめられる可能性がある。だがこの歌詞表現が、たんに個人の制作ではなく、作詞者であるマスターと歌い手であるミクとの共同作業によって、彼女の存在的な位置や独自の発音が考慮されながらまさに成立したのならば、「私の時間」が作品として美しく温かなかたまりとして感じられることには根拠があるのではないだろうか。 島袋八起 プロフィールお絵描きがすきで、pixivをやっていたところ絵を描きながらニコニコ動画を「聞く」ようになりました。作詞作曲がすきで最近はJ-POP・アニソン・ボカロについての歌詞分析などをしています。ブログ「フシギにステキな素早いヤバさ」(http://pixiv.cc/yaoki/)でイラスト・漫画批評や文芸創作を、ブログ「みらくる明るいセカイ」(http://d.hatena.ne.jp/yaoki_dokidoki/)では音楽批評などをやっています。また音源+批評をめざすフミカレコーズ(http://fumikarecords.com/)をやっています。 |
掲載:『VOCALO CRITIQUE Pilot』2011年11月3日発行