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No.03 メルト/Innocence/ハジメテノオトの歌詞にかんするアイディア

Written by 島袋八起


メルトの歌詞にかんするアイディア

歌詞を左のようにパートわけをする。Aメロの1行目から2行目にかけて「さ」の音による押韻が見られる。これをひきつぐかたちで、2行目の「まっさき」以降から「き」の音による押韻へシフトする。つまり、2行目から3行目は「き」の音による押韻が支配的だ。さらに、3行目の「きった」以降は「た」の音による押韻が支配的になる。

Bメロの前半部では、「か」による押韻が支配的になっているが、この「か」の音もAメロ最後の「きかれたくて」から引かれていることがわかる。

Aメロ
あさ めが さめて
まっさきに おもいうかぶ きみの こと
おもいきって まえがみを きった
どうしたの って きかれたくて

Bメロ
ぴんくの すかーと
おはなの かみかざり
さして でかけるの
きょうの わたしは かわいいのよ

サビ
めると とけてしまいそう
すきだ なんて ぜったいに いえない だけど
めると めも あわせられない
こいに こいなんて しないわ わたし
だって きみの ことが すきなの

(初音ミク Wiki - メルト 参照)

ここに注目することのおもしろいポイントはふたつある。

ひとつは支配的な押韻がどんどん切り替わっていくこと。これは「メルト」だけでなく「君の知らない物語」でもシーンの切り替わりがどんどんあざやかに変わっていくsupercellの音楽の一面が、歌詞にも表れているといえる。

もうひとつは、押韻の切り替わりがスムーズに行われていること。先の押韻が完全に終わる前に次の押韻がスタートするという構成になっていることだ。つまり、「さ」から「き」へは「まっさき」が、「き」から「た」へは「きった」が、「た」から「か」へは「きかれたくて」が、まるでDJ用ミキサーのクロスフェーダーのような役割を担っているのである。


Bメロの盛りあがり

Bメロという音楽パートは、ふだんは機能として、歌を印象づけるAメロと歌を記憶づけるサビを仲介するパートとなっている。仲介の仕方にはいろいろあるかも知れないが、この歌の場合は、リズム的にスピードダウンしつつ、サビの盛り上がりに向けて次第に気分を盛り上げていくような役割を持たされている。 

さて、歌詞に注目すると、Bメロの後半「さして でかけるの きょうの わたしは かわいいのよ」。ここにはAメロの押韻で順序よく出てきた「さ」→「き」→「た」→「か」がこの短い範囲ですべて使われている。

ここで押韻が「再現」されているということから、Aメロで流れていた思い出のような時間たちがここにぎゅっと「圧縮」されているような感覚を僕たちは覚えるかも知れない。つまり、時間がさっきよりも早く流れるような、あるいは歌の濃度が高まったようなそんな印象をもしかしたら感じているのかも知れない。

歌詞のレベルでみても、supercellの楽曲構成は論理的・戦略的につくられているように見える。


サビの「メルト」の「め」と「と」

これに注目すると、歌詞の最初に出てくるフレーズが布石になっていることがわかる。つまり、朝「めがさめて まっさきに おもいうかぶ きみの こと」というフレーズを圧縮したことばとして「メルト」という音列を理解することもできるかもしれない。それから、「ぴんくの すかーと」も「と」の音で押韻をしているから、「メルト」の「と」の音は好きな人のために着飾る女の子のわくわくするような気持ちも表していると考えることができるだろう。

サビにおける位置や意味の近接性から、もちろん「メルト」があきらかに「とけてしまいそう」な気持ちや「めも あわせられない」ほど深く恋しているということを理解することはできる。だが、このようにAメロやBメロから押韻によって綴られた糸をたどることによって、歌から感じ取られる、その胸がきりりとしめつけられるような切なさを、もっと鮮明かつ繊細に語ることはできないのだろうか。


Innocence の歌詞にかんするアイディア

Innocence の歌では、「た」の音が強調されている。Aメロに注目してみよう。まず「わたしは」「うまれた」という「た」の音による押韻が置かれている。さらにつづけて、「まちのぞんでた」「わたしに」「うたを」「おくってくれた」のように、「た」の音でくりかえし押韻がされる。この押韻が僕たちの耳を引くとすれば、それはすでに先行するイントロサビにおいて「わたしは」「うまれあいされてきた」という音列が「た」の押韻をあらかじめ予告し準備しているからだと考えることができる。

この聴取を経由して、1番サビを見ると、「わたしは」「あいされてきた」「ただ」「うたが」「わたしを」「そだててくれた」というふうにこの歌を「た」の押韻が支配しているということがわかるだろう。先回りして結論を言えば、この「た」の音は主に、「わたし」そして「うた」ということばによって構成されている。

しかし、論理が飛躍している。「わたし」はともかく、「うた」ということばはそんなに出ているか? だから補助線を引こう。
僕が押韻の分析をするときによく用いる用語で「圧縮」ということばがある。それは、つぎの例のように、あることばの音列について、中間を省略して音数をへらすことをさす。

3音から2音へ圧縮の例:くるまじゃないよ くま(ぼくはくま)*
5音から2音へ圧縮の例:あかいきせつ:あつれきは(透明少女)**

(*)「ぼくはくま」(みんなのうた、作詞:宇多田ヒカル、EMI Music Japan、2006年)。歌詞は歌詞タイム「ぼくはくま」で見られます。
(**)「透明少女」(作詞:Mukai Shutoku、EMI Music Japan、1999年)。歌詞はListen.jp「透明少女」で見られます。

図式化すれば、先に置かれた冗長な音列を「圧縮」してより短い音列にする押韻の一種の論理形式である、と言える。一般的には頭韻と脚韻の組みあわせとも説明できる。

イントロサビ

ばーちゃると げんじつの はざまで
わたしは うまれ あいされてきた
いまだけ おねがい
ゆめを みさせて

1番Aメロ 

なつの おわりに わたしは うまれた
あつい ひが つづく この ばしょで
まちのぞんでた みんなは わたしに
すてきな うたを おくってくれた

1番サビ 

ばーちゃると げんじつの はざまで
わたしは うまれ あいされてきた
りあるな せかいは ふくざつすぎて つかれちゃう
ただ すてきな うたが ききたくて
みんな わたしを そだててくれた
いまだけ おねがい ゆめを みさせて

2番Aメロ 

たのしい ひびも いつかは おわると
わかっているけど いまだけは
あなたが くれた すてきな うたを
うたっていたい ねぇ いいでしょ・・?


このように見ると、イントロサビ「うまれ あいされてきた」、1番Aメロ「うまれた」、「うたを」あるいは「うたを おくってくれた」、2番Aメロ「うたっていたい」などはすべて「うた」という音列へと圧縮できるということがわかるかもしれない。(なお、「つかれちゃう」から「ただ すてきな」へとつながる「うた」があることにも注意したい)

少なくとも、「うた」という音列が初めて具体的に出てくる1番Aメロまで、「うまれ あいされてきた」→「うまれた」→「うた」という二段階のていねいでわかりやすい圧縮が行われていることは指摘できそうだ。

では、ここで「た」の音をつうじて構成される歌詞の意味について考えてみよう。まず歌詞から要約されるのは、「わたしにみんながすてきなうたをおくってくれた」ということだ。歌詞を普通の文章として読むなら、彼女にとって「うた」とはポジティブなイメージを持ったものとしてとらえられていることがわかる。そして「た」の音に注目すると、「うまれた」「まちのぞんでた」「おくってくれた」のように、「た」の音は受動的な事態についての嬉しさを表現することばと結びついている。

サビへ移ると、「あいされてきた」「そだててくれた」となり、Aメロと同様に受動的な嬉しさの表現である。だが、2番Aメロへと進むと様相は異なってくる。「たのしい」「うたっていたい」といったこの表現は、ミクの能動的な気持ちについて語ったことばであり、したがって「た」の音もこの能動的な感覚へと結びつけられているのである。

以上を繰りかえして言えば、それまで「みんな」が「おくってくれた」歌を歌うことでミクは「あいされてきた」のだが、2番に至って「あなた」が「くれた」歌をミクは「歌っていたい」と主張している。受動的から能動的への対比はもちろんのこと、ここの「みんな」から「あなた」への移行には2段階の仕掛けがほどこされている。ひとつは三人称・複数であった「みんな」から「あなた」という二人称・単数へと、聞き手とミクとの距離感が縮まる表現となっていること。もうひとつは「わたし」「みんな」という押韻的には無関連な対比から、「わたし」と「あなた」という「た」の音で関係が結ばれるような対比へと移行していることだ。

そして「わたし」と「あなた」を「た」の音で結んでいるのが「うた」なのである。ここには歌詞の意味と、歌詞の押韻の関係との密接な結びつきがある。

ハジメテノオトの歌詞にかんするアイディア

ハジメテノオトについてはかつて Twitter で書いた事がある。

「初音ミク「ハジメテノオト」の歌詞を韻による意味の伝達という観点から評価する」http://togetter.com/li/140205

ここに書かれていることはそれなりに面白いと思うので、紹介する。
僕はここでハジメテノオトにくりかえしでてくる「わ」の音に注目する。日本語では「わ」「は」の両方で表記されるので、「わたしは」といったことばにも「わ」の音が2回出てくるととらえることにしている。

この歌に出てくる「わ」の音とは、具体的には1連「はじめてのおとは」「わたしにとっては」→2連「はじめてのことばは」「わたしはことばって」→3連「わたしはうたうから」→4連「わたしはしらない」→5連「かわらないわ」となっている。ここで繰りかえされる「わ」の音は、ただのVOCALOIDシステムつまり「音」という現象でしかないミクが「わたし」という一人称のことばをくりかえしつかうことで、存在として立ち上がっていくしるしとして使われているのではないか。ということを述べている。

さらに、「わ」の音を何度もくりかえすことで、音楽の再生される時間の流れに消えてしまわないように「わたし」をリスナーに何度も思いだしてもらおうとしているのだということを僕は主張している。

あとの細かいことは、Togetter を参照してほしい。きっと面白いと思う。


島袋八起 プロフィール

お絵描きがすきで、pixivをやっていたところ絵を描きながらニコニコ動画を「聞く」ようになりました。作詞作曲がすきで最近はJ-POP・アニソン・ボカロについての歌詞分析などをしています。ブログ「フシギにステキな素早いヤバさ」(http://pixiv.cc/yaoki/)でイラスト・漫画批評や文芸創作を、ブログ「みらくる明るいセカイ」(http://d.hatena.ne.jp/yaoki_dokidoki/)では音楽批評などをやっています。また音源+批評をめざすフミカレコーズ(http://fumikarecords.com/)をやっています。


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CRITIQUE VOCALO,
2013/11/16 1:45